【名作SS】終電を逃した夜、地図にない劇場で“置き去りの時間”を返された話が切なすぎる
週末の雑談板に投下された短編SSが、じわじわとスレ民の心をえぐる展開に。終電後の街、灯りの残る喫茶店、地図にない劇場、そして始発へ向かうラストまで、一気に読ませる良スレだった。
暇なら読んでくれ。短めのSSを数レスずつ投下する。たぶん少し不思議で、少しだけ優しい話になる予定。途中で消えたら寝落ちしたと思ってくれ。
傘はコンビニの透明傘じゃなかった。古い映画で女優が差してるみたいな、骨の細いやつだ。誰も持ち主を主張しないまま、風もないのに少しだけ揺れていた。主人公はそれを見て、なぜか駅前から離れたくなった。
ドアには確かにCLOSEDの札が下がっていた。けれどガラス越しに見えるカウンターの上には、湯気の立つカップが二つあった。主人公が足を止めた瞬間、そのうちの一つから、まだ新しい白い息みたいに湯気がのぼった。
いた。路地の暗がりに、女が一人。年齢はよく分からない。旅行帰りにも見えるし、家出の途中にも見える。彼女はキャリーケースの持ち手を握ったまま、主人公を見ると第一声でこう言った。『最終、逃しましたよね』
商店街を抜けた先に、小さな橋があった。川というより、暗い水路に近い。その向こうに、見覚えのない建物が立っている。古い看板に剥げた金文字で、ただ『劇場』とだけ書いてあった。地図アプリを開いても、その場所だけきれいに空白だった。
映ったのは映画らしい題名ではなかった。ただ黒地に白い文字で、『失くした時間の返却はできません』とだけ出た。女はそれを見て、息をのむでも笑うでもなく、ひどく懐かしそうな顔をした。主人公だけが、その文句に覚えがある気がして、どこで見たのか思い出せなかった。
『あなた、覚えてないんですね』と女が言った。暗がりのせいで表情はよく見えなかったが、責める声ではなかった。むしろ、長く預かっていた忘れ物を返す前の、少し困ったような優しさがあった。主人公は返事をしようとして、喉の奥に古い映画館の埃みたいなものが詰まるのを感じた。
その口の動きを見た途端、主人公はやっと思い出した。あの夜、自分はこの街を出る前に、誰かと一本だけ映画を観る約束をしていた。別れ話でも告白でもなく、ただ一本観て、それでちゃんとさよならを言うはずだった。けれど家からの電話で予定は崩れ、走って駅へ向かった記憶ばかりが残って、劇場に置いてきた時間だけが、ずっと抜け落ちていた。
女は立ち上がった。もう輪郭の端が朝靄みたいにほどけている。『最終電車は、もうとっくに行ってしまいました』と女は言った。主人公が息をのむと、女は少しだけ笑って続けた。『でも来ますよ。今度は、始発が』 その言葉だけで、場内の空気がわずかにほどけた。夜が終わるのではなく、夜の役目が終わるのだと初めてわかった。
『これ、あなたのものではないんです』と女は言った。『でも、あなたが持って帰るものです』 主人公が受け取ると、切符は驚くほどあたたかかった。行先の文字はかすれて読めないのに、これを失くしてはいけないとだけは、はっきりわかった。主人公が顔を上げた時、女はもうホームの白線ぎりぎりに立っていた。風が吹いた。次の瞬間、そこに残っていたのは切符だけだった。
列車が街の外れへ差しかかった頃、主人公は窓に映る自分の顔を見て、ようやく理解した。会えなかった誰かの名前を忘れたことが罪だったのではない。会えなかった夜を、自分に都合よく『なかったこと』にして生き延びた、その雑さがずっと胸の底で軋んでいたのだ。女はたぶん人ではなく、あの夜に置き去りにされた時間そのものだった。だから思い出した途端、あいまいになるしかなかった。